第五話
不機嫌な妻
そういえば、若い頃にもこんな風にオムライス屋にきたことがあったな。
つまらなそうにメニューを眺める妻を見て、ふと思い出した。
たぶん、出会ったばかりの頃だったと思う。彼女に連れられて、オムライスが評判の洋食屋に入ったのだ。女性と食事をした経験がほとんどなかった俺は、会話がとぎれるのが怖くて、一方的にしゃべり続けた。
今では考えられないことだが。
結婚してもう十五年になる。
誕生日や結婚記念日は、できるだけ丁寧に祝うようにしてきたが、それは一緒に暮らした年数を確認する義務的作業のようなもので、互いのささいな変化や心の機微に、無頓着になってきたことは否めない。これがごくごく一般的な日本の夫婦の姿だと思ってはいるが、宝物にふれるように相手を気遣った若い頃が、ときおり恋しくなる。
なんだか機嫌の悪そうな妻の顔を盗み見ながら、そんなことを考えていると、注文したオムライスが運ばれてきた。
家では食べることができないビーフシチューのかかった贅沢なタイプだ。
いちばん大きな牛肉の塊は皿の端によけ、最後のお楽しみにする。シチューとたまごとライスで、スプーンの上に小さなオムライスを再現した。
最後はその上にさきほどの牛肉の塊をのせて、ひときわ豪華なミニオムライスをつくるのだ。このひと口をめざして、すべての材料をバランスよく残しながら食べすすめる。オムライスにも計画性が肝心だ。
「ねえ、ちょっと気づかない?」
突然妻が声をあげた。
驚いて顔を上げると、額にしわをよせてこちらをにらんでいる。
「わたし、10キロやせたんですけど?」
それは、まったく気づかなかった。
「そういえば・・・頬のあたりがちょっとすっきりした?」
あわててとりつくろうと、妻は肩を落として笑った。
「嘘だよ嘘。体重は現状キープ。じゃなくてね、このお店、私たちの初デートのお店なの。」
そうだ。それはかすかに覚えているぞ。
「オムライスに照焼チキンがのってるのを食べたところ?」
記憶の糸をたぐりよせてこたえると、妻の幸恵は優しい目でうなずいた。チキンとほうれん草の照焼クリームソースオムライスが、彼女の前で甘くなつかしい香りをあげている。 そのあとの会話は、いつも通り。盛り上がりもせず、盛り下がりもせず。なのに小さな幸せが、じんわりと腹を満たしていくのを、俺は一人で感じていた。